寛政六年五月
突然 現われた大首の役者絵
写楽の錦絵は 蔦屋重三郎の企画で世に出現した
寛政六年といえば 寛政の改革が 失敗に終わった翌年のこと
重商主義 賄賂政治といわれた 田沼意次が失脚して
松平定信が老中首座となり 六年続いた質素倹約体制
贅沢禁止 風俗矯正令など 庶民の娯楽も ことごとく統制された
質素倹約政策によって 豪華絢爛も身を潜め
寛政五年十一月の 顔見世興行には
幕府公認 中村座 市村座 森田座 三座とも 不況の煽りを受け
いずれも 櫓を揚げる ことができなかった
翌 寛政六年初春興行は
都座 桐座 河原崎座の 控櫓三座による 静かな興行がはじまった
それでも 定信の失脚で なんとか歌舞伎を盛りあげようと
夏季興行の錦絵をして登場した 写楽の大首絵
二百年以上も前の 江戸文化を語る 彩色木版画が
もっとも有名で 日本を代表する作品となっている
写楽の浮世絵が 登場する背景には
歌舞伎不況を守り立てる 宣伝ポスターにすぎなかった
そう考えれば 定信のおこなった 質素節約令がなければ
写楽は 登場しなかったかもしれないし
蔦重の活躍も 現代の我々に 響かなかったかもしれない